ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2
東 浩紀
講談社 刊
発売日 2007-03-16
POSITION 2007-06-01
確かに実存文学としての観点での美少女ゲーム論や、舞城王太郎や清涼飲料水の小説論は説得力があると思う。しかしここに書かれた批評は誰に向けられたものなのだろうか? 本書を読んで納得したからといって本書の文体を好む読者がライトノベルのような文体を好きになることはほとんどありえない。これは理屈の問題ではなくただの好みの問題だから。他方本書がライトノベルの読者や美少女ゲームのユーザーの代弁を果たしているわけでもない。彼らは理屈ではなく好みでしているだけだから。ということはこの批評は誰のため、何のためのものなのか? 著者は現代の物語がどのような状況にあり、どこに向かっているのかを探る前に、(勿論著者のものに限らないが)批評自身がどのような状況であり、どこに向かっているのかを説明する必要がある。
『ひぐらしのなく頃に』論あり。 2007-05-22
読み終えた第一印象は、やたらと造語をつくるなぁ、というもの。
現象を一つ一つ厳密に定義するのは、アカデミズムの作法としては正しいのかもしれないが、
度を越すと、どこか空回りして、逆に実態から離れていっているようにも感じられた。
ところで本書には、いつくかのライトノベルやゲームについての作品論が収録されている。
以下にタイトルだけ挙げておくので、まずは興味を持ったものから読むのも手である。
(ただし、「ネタバレ」ありなので注意!!)
『All You Need Is Kill』
『One』
『Ever17』
『ひぐらしのなく頃に』
『九十九十九』
『Air』(※「付録」として)
本書を読んで1つ知ったことは、近年の「美少女ゲーム」には、作品内の存在でありながら、
作品全体を俯瞰し言及することができる、メタフィクショナルなキャラが出てくる、ということである。
こうしたキャラ達は、作品内をくまなく見渡すことはできるが、直接ストーリーに介入できず、
他のキャラからは存在すら知られていないものと一応定義される。
いわば“全知ではあるが、全能ではない透明な神”である。
それを筆者達は、現実のプレイヤー=おたくの隠喩だと捉えている。
現実のコミュニケーションが切断され、行動を起こすことなく、ただただ見つめる存在、ということらしい。
なるほど、と納得。
筆者は純文学だの、ライトノベルだのの別なく、何でもボーダレスに論じられる批評空間にしたい、という主旨の主張を書いているが、
残念ながら、本書の内容では一般層への波及効果はないと思う。
結局は「おたくであることの言い訳も含めた商売のためだろ?」
という素朴な問いに筆者は頷かざるを得ないのだから。
ゲーム的リアリズムではなくネット的リアリズム 2007-05-20
この本を読み進める際、著者も冒頭で念押ししているように作品論的には「オタクから見た日本文学」という限定されたフィールドに絞った評論である事を念頭に置いたほうがよいだろう。大きな物語⇒小さな物語、作品⇒キャラクター、物語消費⇒データベース消費という前著の延長線上にある理論はオタク、サブカルだけの現象ではなく、より広範な事象に適合するという事実の一方で、本著では、オタク∩日本文学フィールドのライトノベル、美少女ゲームのみが重点的に取り上げられている。本著でほとんど触れられていないからといって、それ以外の文学が「動物化するポストモダン」の洗礼を受けていない訳では決してないってことだ、“特定の物語の共有化圧力の低下”ってことでは。ケータイ小説なんかも、明らかに「動物化するポストモダン」的現象だと思う。
本著ではライトノベル、美少女ゲームの「動物化するポストモダン」性を強調するためのコンテクストが多く見られるけど、実験性の部分をあまり深読みしていくと隘路に陥りやすいんじゃないだろうか。「複数の物語」や「リセット可能な死」なんてメタファーの立て方であって。従来の文学だって一冊の本を1つの人生と見立てれば、別の本を手に取る事は複数の物語だし、途中でページを閉じることはリセットだし。一冊の本だって読み手の数だけ誤読、深読みっていう複数の物語がある訳でさ。もとい、作者から読者に向けた一方通行のパッケージメディアっていう表面は、従来文学もライトノベル、美少女ゲームも一緒である。一線を引くとすれば、「電車男」やネットゲームに見られる作者と受容者の混在だったり、不在だったりのほうじゃないのかね。本書は大塚英志からの引用が多いけど、著者には大塚の「更新期の文学」の「送り手」と「受け手」問題をさらに敷衍して欲しかった。タイトルに模して言えば、ゲーム的リアリズムではなくネット的リアリズム、の部分をね。
純粋批評人間、東。 2007-05-17
評論の対象をサブカルチャーに広げたせいなのか、彼の文章が平易になったせいなのか、
おそらく両方なのだが、彼の書くものが次第に心に落ちるようになってきた。
彼は純粋に批評の人なんだと思う。
ネット上の往復書簡で“大人の喧嘩”をやらかしてしまった笠井潔氏の論文も、
その喧嘩のきっかけになった西尾維新の作品も、すべてフラットに評価している。
ただもう批評をしたいのだ。自分の手法で切り刻んでみたいのだ。
そのためには個人的感情なんてヌキなのだ。
「動物化」「データベース消費」など、彼独特の視点で
(だからこの本だけ読むと理解が難しい箇所もないではないが)
サブカル=主にライトノベルと美少女ゲーム=を分析しています。
筆致が過剰に熱くならないところも、好みであります。
アジェンダ設定能力は、確かにすごい 2007-04-22
ポスモというメタ物語的環境の中で解離的な生を強いられ、内省性を掘り崩されて「動物化」した人々が抱え込む、「それでも『人間』でありたい」という実存的問題。これを「メタ物語的な読者をいかにして物語のなかに引き込むか」(p215)という課題として引き受ける「ゲーム的リアリズム」の意義を、著者は訴える。それは、物語内でのリアリティに拘泥する大塚英志からの批判に抗し、物語が物語外の現実との関係で表現する「構造的主題」に着目すべしという宣言でもある。
しかし「プレイヤー自身のメタ物語的な経験が、すでに物語のなかに書きこまれているように感じさせる試み」(p212)と説明される「ゲーム的リアリズム」から、フーコーの「ラス・メニーナス」分析やマグリット論を連想する人は多いだろう。表象文化論の一定型と言える。あるいは、記号的環境に反応する「動物」たちは、ドゥルーズの描くプルーストのようだ。
著者の「動物」概念はコジェーヴ由来とされるが、「環境管理型権力」やら「環境分析的読解」やらをめぐる議論を通じ、明らかに生物学的な含意を強めてきた。自然主義的リアリズムの解体を言う東の議論が、どこかゾラ的な自然主義に回帰しているような逆説も感じる(ゾラには『人間という獣(獣人)』という作品もあるし…そう言えば、蓮實重彦がしきりに称揚していた「愚鈍」というのも「内省を欠いてケモノ並み」という意味だった)。
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